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レジスター – 短編小説 –

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レジスター/ Labo life

スーパーに来るのは、だいたい朝の9時過ぎだ。
太陽がすっかり高くなって、街が「今日」という本番を始めた頃、僕の「一日」は終わる。

かつて、白衣を着て顕微鏡を覗いていた頃、ここは帰り道に空腹を満たすためだけに寄る場所だった。

今は、わざわざ、この時間を選んで来ている。

夜勤明けの、ひどく乾燥した目には、
店内のLED照明が、少しだけ眩しすぎる。

ここは混まないし、何より、急ぐ理由がどこにもない。

買うものは、だいたい決まっている。
牛乳と、パンと、昨夜から売れ残って値引きシールの貼られた惣菜。

眠りにつくためだけの、
特別なものなど何もない買い物だ。

レジに並ぶ列は、三人だけだった。

前から二人目の後ろ姿を見た瞬間、
重たい瞼が、ぴくりと跳ねた。

――あっ。

そう思っただけで、
名前はすぐには浮かばなかった。

たぶん、あの人だ。
かつて、同じラボで数字と向き合っていた人。

毎日顔を合わせて、サンプルの取り違えを笑い合ったり、
深夜までデータの不整合を追いかけたりしていたのに、
最後にどんな言葉を交わしたかは、思い出せない人。

声をかける理由も、
今のこの、作業着の上からコートを羽織った姿では、見つかりそうになかった。

僕は、そのまま一つ後ろに並んだ。

距離は、買い物かご一つ分。
近いのに、もう十分に遠かった。

レジは、セルフではなかった。
この時間帯は、だいたい一台だけ開いている。

前の人が、かごを置く。
バーコードを読む音が、乾いたリズムで続く。

ぴっ。
ぴっ。

かつて、遠心分離機が止まるのを待っていた時と同じ、無機質な音。

あの人も、同じようにこの音を聞いていたのだろうか。

制服は、違っていた。
髪も、少し短くなっている気がした。

でも、立ち方だけは変わっていなかった。

体重を、ほんの少し片方の足に預けて、
待つ時だけ姿勢がゆるむ。

僕は、それをよく知っていた。
知っていた、はずだった。

レジ脇の棚に、目が止まる。
ガムや電池、小さなチョコレートが並んでいる場所。

かつての僕たちの「定番」が、そこにあった。

レジを待っている間、
特に買うつもりもなかった商品をなんとなく目で追って、
結局何もカゴに入れないまま、
一番最後、合計金額が出る直前に、

「あ、これもお願いします」

そう言って、その小さなチョコレートを差し出す。

それが、あの頃の僕たちの、退勤前の決まった儀式だった。

「それ、結局いつも買いますよね」

そんなふうに笑い合いながら、
二人で半分ずつ分けた、あの甘さ。

今、指先が、
無意識にその銀紙の包みへ伸びそうになる。

けれど、僕はそれを、
ポケットの中で握りしめた拳で止めた。

今の僕には、
それを半分こにする相手も、
夜勤明けの疲れを分かち合う言葉も、持ち合わせていない。

「ポイントカードは、ありません」

前の人がそう言った。

声を聞いた瞬間、
答え合わせが終わってしまった。

やっぱり、あの人だった。

「レジ袋はいりません」

その言い方まで、同じだった。

少しだけ、変な気分になる。

変わっていないことを見つけてしまうと、
自分のほうが、置いていかれたみたいで。

順番が、ひとつ進む。

あの人が会計を終えて、袋を持つ。

僕は、目線を落としたまま、
ベルトコンベアの端を見ていた。

もし、顔を上げたら、
目が合ってしまう気がしたからだ。

別に、困ることなんて、何もないのに。

「ありがとうございました」

その声と一緒に、
あの人の背中が、少しだけ前に進んだ。

出口は、まっすぐだ。

あの人は、振り返らなかった。

たぶん、気づいていなかったのだと思う。

……いや。
気づいていたとしても、同じだった。

声をかけなかったのは、
勇気がなかったからじゃない。

言うことが、なかったからだ。

あの人はこれから、
誰かが待つ明るい場所へ帰る。

僕は、これから、
今日を終わらせるために、暗い部屋へ帰る。

レジの前に立つと、
さっきまでの場所が、もう他人の場所になっていた。

牛乳と、パンと、値引きされた惣菜。
ベルトの上に並べる。

「ポイントカードはお持ちですか」

「……ありません」

少しだけ、間を置いてから、そう答えた。

かつての自分の答えと、
同じ言い方にならないように。

もう知らない人になったわけじゃない。
ただ、知っている必要が、なくなっただけだ。

レジの表示が、合計金額を映す。

それで、十分だった。

(終)


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