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人間は好き勝手しすぎたのか? ― 便利さの裏で自然は壊れていないか

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― 便利さの果てに、自然と何を失ったのか ―

現代社会は、間違いなく便利になった。
ボタン一つで明かりが灯り、特に日本ではPFASの問題はあるが、それでも蛇口をひねれば安全な水が出る。
プラスチックの発明によって、医療や衛生、物流は大きく進歩し、感染症や病気は確実に減った。

その恩恵を否定することはできない。

しかし、ふと立ち止まって考える。
この「便利さ」は、本当に正しい進化だったのだろうか。


生きることに必死で、見えなくなったもの

便利になったんだから、多少の犠牲は仕方ないよ

その“多少”が、もう取り返しのつかない所まで来てない?

多くの人は、目の前の生活を守ることに必死だ。

人間は、目の前の生活を守ることに必死だ。
仕事、家庭、将来への不安。
今日を生き抜くことで精一杯で、遠くの未来や、目に見えない自然の変化には目が向きにくい。

「便利だから」
「必要だから」

その言葉で、どれだけの自然が切り捨てられてきたのだろう。

そもそも、 必要なものと、不必要なものの線引きは、誰が決めているのか。


プラスチックは悪なのか?

プラスチックは、人類を救った素材でもある。
軽く、丈夫で、安価。医療現場では命を守り、生活インフラを支えてきた。

だが同時に、

  • 分解されない
  • 自然に還らない
  • 海や土壌に残り続ける

という“負の側面”も抱えている。

ここで、もう一つ見逃されがちな問題がある。

プラスチックには、完全な代替案がほとんど存在しないという現実だ。

紙や木、金属、バイオ素材。
代替として挙げられる素材はいくつかあるが、

  • 耐久性
  • 防水性
  • 軽さ
  • 価格
  • 大量生産性

これらすべてを同時に満たすものは、今のところ存在しない。

つまり私たちは、 問題があると分かっていながら、使い続けるしかない素材に依存している。

便利さを優先した結果、
後始末を未来に丸投げしてきた構造は、ここにもある。


人体に入り込むマイクロプラスチック

近年、さらに深刻視されているのがマイクロプラスチック問題だ。

マイクロプラスチックとは、5mm以下に砕けた微細なプラスチック片のことを指す。
これらは海や川、空気中にまで広がり、

  • 魚介類
  • 飲料水
  • 空気中の粉塵

を通じて、人間の体内に取り込まれていると考えられている。

実際に、

  • 血液
  • 便

などからマイクロプラスチックが検出されたという報告も出てきている。

ただし、人体への長期的な健康影響については、現時点では明確な結論は出ていない
危険だと断定できない一方で、 「安全だと言い切れる段階でもない」というのが現状だ。

分解されない物質が、体内に蓄積され続ける。
その事実だけでも、不安を感じる人は少なくないだろう。


再生可能エネルギーの「影」

ソーラー発電は、クリーンで環境に優しい。
そう信じられてきた。

しかし、近年問題になっているのがメガソーラー計画だ。

山を切り開き、森林を伐採し、広大な土地にパネルを敷き詰める。
その結果、

  • 土砂災害のリスク増加
  • 生態系の破壊
  • 景観の喪失

が各地で起きている。

実際に、自治体の許可が下りず計画が止まっている場所や、住民による署名活動が行われている地域もある。


切られた木は、元に戻るのか

一本の木が育つまでに、何十年とかかる。
森が森として機能するには、さらに長い時間が必要だ。

一度切り開かれた山は、 人の寿命の中では、元には戻らない。

それでも人は言う。

「環境のためだ」と。


メガソーラー最大の問題 ― 廃棄の行き先

あまり語られないが、最も深刻なのがここだ。

太陽光パネルは、寿命を迎えれば産業廃棄物になる。
しかも、

  • 完全なリサイクルは困難
  • 処理コストが高い
  • 処分方法が確立されていない

という問題を抱えている。

各地に設置されたメガソーラーが、 数十年後、一斉に廃棄物になる未来を、私たちは想像できているだろうか。


現場で見た現実 ― 田舎に残されるもの

山や川、用水路、橋の下。
実際に田舎で暮らしていると、ニュースでは語られない現実が目に入る。

誰が捨てたのか分からないゴミ。
いつからそこにあるのか分からない廃材。
回収される気配もなく、ただ「そこにあるもの」として風景に溶け込んでいく。

一つひとつは小さく見えても、積み重なれば確実に環境を変えていく。
そして多くの場合、その後始末は地域や次の世代に委ねられる。

便利さの裏側は、都会では見えにくく、地方に残りやすい。


取り返しのつかない現状の果てに、人は何を見るのか

便利さを選び続けた先で、
自然が壊れ、景色が失われ、処理できないゴミだけが残る。

そのとき人は、 「やりすぎた」と気づくのだろうか。
それとも、また別の便利な言葉で正当化するのだろうか。

私たちは今、
便利さを手放せない自分たち自身と向き合う段階に来ているのかもしれない。

答えを出すことよりも、
問い続けること。
立ち止まって考えること。

それをやめた瞬間、同じ過ちは繰り返される。

人間は、本当に好き勝手しすぎたのか。
その問いを、未来ではなく「今」に向ける必要がある。


Thank you for reading this blog, everyone 🙂


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