sponsored Link

書店  - 短編小説 –

SPONSORED LINK


書店/Labo life


眠れない日が、時々ある。
そんな夜は、無理に目を閉じるのをやめて、散歩がてら近所の書店まで足を運ぶ。

夜勤明けの疲れとはまた違う、神経が細く研ぎ澄まされたような感覚。
歩き慣れた道でも、朝の光が混じり始める時間帯は、
どこか知らない街を歩いているような心地がした。

開店直後の店内には、午前の柔らかな光が窓から差し込んでいた。
人影はまばらで、空調の微かな音だけが、高い天井に吸い込まれていく。
この場所に来るのは、理由があるわけじゃない。
ただ、静かで、少しだけ世界から切り離された感覚が欲しかった。

棚の間を歩きながら、指先で背表紙をなぞる。
懐かしいタイトル、見知らぬ著者の名前。
かつてラボで、試薬のラベルを厳密に管理していた頃の癖が、本の背を追う指先に残っている。

本の匂い、紙の手触り。
それだけで、ささくれ立っていた心が、ゆっくりと凪いでいく。

ふと、新刊コーナーで指が止まった。
昔好きだった作家の名前。
何年ぶりだろう。手に取るだけで、あの頃の自分が少しだけ顔を出す。

ページをめくると、インクの匂いと紙の感触が、一気に記憶を呼び覚ました。
深夜、測定器の稼働音を聞きながら、一人で文字の海に沈んでいた時間。
誰かと分かち合うものではなかったけれど、あれは確かに、僕を守るための小さな盾だった。

その時、パラリとページの間から小さな紙切れが零れ落ちた。
古びた、黄色い付箋だった。
前の読者が栞代わりに忘れていったものだろうか。

拾い上げて目を凝らすと、そこには薄くなった文字で、こう書かれていた。

『また来週』

ただ、それだけ。
誰に宛てたものかも、いつ書かれたものかも分からない。
けれど、そのたった四文字が、孤独に浮いていた僕の心を、静かに地上へ繋ぎ止めた気がした。

この本を読んでいた誰かも、僕と同じように、
この物語の続きを糧にして、明日へと時間を繋いでいたのだろうか。

僕はその付箋を、元のページにそっと戻した。
僕も、また来週、ここに来よう。
そう思うだけで、胸の奥に灯火が宿ったような気がした。

手にした本を棚に戻し、店を出る。
外の光は、入り口のガラス越しに見た時よりも、ずっと柔らかく僕を包み込んだ。

通りの向こうに、これから仕事へ向かうであろう人影が見えた。
もう、目を逸らしたりはしない。
何も言わなくても、今日の小さな発見だけで、十分だったから。

静かに歩き出す。
眠れなかった夜の終わりが、新しい一日の始まりに、静かに溶けていく。
昨日よりも少しだけ、世界が優しく、僕を受け入れてくれているような気がした。

(終)


>>Xはこちらです!Clickしてすすんでください。

SPONSORED LINK