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予熱   - 短編小説 –

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予熱 / Labo life

夜勤に向かう前、僕は台所で一合半の米を研いだ。
かつて大学の研究室で、試薬の配合をミリグラム単位で計っていた頃の指先が、今は炊飯器の目盛りに合わせて水の量を微調整している。

「朝の六時に、炊き上がるように」
タイマーをセットする。
ピッ、という小さな音は、数時間後の自分へ宛てた、確かなメッセージだ。


夜勤の現場は、冷たい機械音に満ちていた。
疲労が澱のように溜まっていく午前三時。
ふと、自宅の台所で静かに熱を帯び始めている炊飯器のことを思う。

研究室に泊まり込み、遠心分離機(試料を高速回転させる実験機器)が止まるのを待っていたあの頃。
待ち時間はいつも、正解を出すための不安に支配されていた。
けれど今の「予熱」は、僕を少しだけこの場所から救い出してくれる。


仕事が終わり、冬の朝の冷気を吸い込みながら帰路につく。
スーパーを過ぎ、書店の前を横切り、自分の部屋のドアを開ける。
そこには、僕が仕込んでおいた「生活」の温度が残っていた。

炊飯器の蓋を開けると、真っ白な湯気が一気に視界を奪う。
コンビニの惣菜を並べ、炊きたての米を茶碗に盛る。
ひとりで食卓につき、箸を持つ。


そのとき、ふとした拍子に、箸の先が茶碗の縁に当たった。

カチャッ、という乾いた音。

その音を聞いた瞬間、記憶の蓋が音を立てて開いた。
あの日、救急車で運ばれる前の僕が、夢の中で聞いた音。
旅に出たはずの弟が、何事もなかったように飯を食っていた、あの朝の音。

あの時、母は「夢でも見たんじゃないの」と言った。
けれど、今の僕にはわかる。
あの夢も、この炊飯器の予熱も、きっと地続きの現実だ。


弟と分かち合うことは叶わなかった。
けれど、僕は今、自分のために、そしてあの日の弟の分まで、温かい米を噛みしめる。

「……美味いよ」

独り言は、湯気の中に溶けて消えた。
茶碗から伝わる熱が、手のひらを、そして胸の奥をじんわりと温める。
これは、過去の僕が、そしてあの日現れた弟が、今の僕へと繋いでくれたバトンだ。


朝日が食卓を照らす。
僕は最後の一口を飲み込み、そっと箸を置いた。
あの日の音と同じように、静かに、けれど確かな響きを残して。

空になった茶碗を見つめながら、ふと、昨日の書店で見た黄色い付箋を思い出した。
『また来週』
あの文字の主は、今、何を食べているのだろう。
そんな答えの出ない好奇心が、自分の中に芽生えていることに驚く。


「……よし」

明日の夜勤明けは、少し遠出をしてみよう。
町外れにある、お好み焼き屋まで。
予熱は、もう十分に済んでいた。

(終)


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