絵葉書 / Labo life
店を出ると、冷たいはずの冬の空気が、今の僕には心地よく感じられた。
胃の奥にあるお好み焼きの熱と、鉄板の煙に巻かれた記憶が、体温を一段階上げている。
歩き出してすぐ、視界の隅で「黄色」が揺れた。
店の入り口にあるベンチ。さっき隣に座っていた男が、立ち去った後に残した忘れ物。
一冊の文庫本と、その間から滑り落ちた一枚の絵葉書だった。
僕はそれを拾い上げた。
昨日の書店から続く、奇妙な連鎖。
絵葉書には、雪に覆われた北の街の風景が印刷されていた。
宛名面を見ると、住所も名前も書かれていない。
ただ、震えるような筆跡で一言だけ、メッセージが書きかけられていた。
『元気か。今度、一緒に』
そこでインクは途切れている。
続きを書くのをためらったのか。あるいは言葉が見つからなかったのか。
真っ白な余白が、かつて僕が弟との間に放置してきた沈黙の時間と重なって見えた。
「……あ」
道の向こう、バス停へ向かう男の背中が見えた。
僕は走り出していた。
夜勤明けの、節々が痛む身体が、驚くほど軽く動く。
予熱はとっくに終わっている。
今の僕は、この「書きかけの言葉」を、持ち主に返さなければならない。
「すみません!」
僕の声に、男が振り返る。
驚いた顔をする男の手に、僕は絵葉書を押し付けるように差し出した。
「これ、忘れ物です」
「ああ、わざわざ……すみません。もう、捨てようかと思っていたんですが」
男は困ったように笑い、絵葉書を受け取った。
書きかけの言葉。それを捨てようとした男の仕草が、かつて弟との「掛け違えたボタン」を直すことを諦めていた僕自身に見えた。
喉の奥が、熱くなる。
大学の研究室で、何度失敗しても実験を繰り返していたあの頃の情熱とは違う。
もっと切実で、剥き出しの言葉が口をついて出た。
「書いたほうがいいですよ」
男が僕を見た。
「それ。今書かなきゃ、もう二度と届かなくなる。
失ってからじゃ、言葉はもう、ただの石ころと同じになるんです。
僕みたいに、後悔するだけの人生を歩いちゃいけない」
男は呆然と絵葉書と僕を交互に見つめていた。
自分でも驚くほど、お節介で乱暴な言葉だった。
しかし、これが今の僕の唯一の「正解」だった。
男はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……そうですね。次のバスが来るまでに、書いてみます」
男はベンチへ戻り、鞄からペンを取り出した。
僕はそれを見届けず、再び歩き出す。
胸がひどく痛んだ。
他人に放った言葉は、そのまま自分を突き刺す刃になる。
弟にはもう、何も届けられない。
けれど今日、僕は初めて「自分の中だけで完結する物語」を拒絶した。
自分のためだけの人生は、もう終わりにしようと思ったのだ。
家へ帰ったら、あの日から止まったままの弟の部屋の扉を開けてみよう。
そこにはきっと、僕がまだ見ていない「旅の続き」が残っているはずだ。
(終)



